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2012年3月25日日曜日

書評:ジョン・ケネス・ガルブレイス著『ゆたかな社会』 (4)

(前回 (3) からの続き)

話をタイトルの『ゆたかな社会』に戻さなければならない。総合政策学部の初代学部長にして法律の鬼、渥美東洋先生の授業では折に触れて「原書を読め」ということを言われていた。「原書が読めないときは、英語の訳が一番まともだから、英語で読め」とも教えられた記憶がある。ガルブレイスの『ゆたかな社会』のタイトルも、まさにこの教えを思い出す例である。大学の授業でも、テレビ番組でも「本当のゆたかさ」とは何かという問いが、暫定的な答えを求めさまよっているが、その時の「ゆたかさ」を英語でなんと言うのか、richというのかfulfilledというのか、stableというのか、それは重要な問題である。本書の原タイトルはそれらのいずれでもなくaffluentである。Affluentの訳が「ゆたか」とは!と思う人もいるだろう。なぜなら、affluentはどちらかというか、熱に浮かされているように、熱病のように、ヒートアップ(しすぎた)したちょうどバブルのような状況を髣髴とさせるニュアンスがあるからである。現学部生はまだ生まれてもいないであろうバブル時代は「モノ余りの時代」「カネ余りの時代」とも言われ、女子大生がファミレスでお食事し、若いカップルが不必要に高級レストランで食事をして高級ホテルに宿泊するのがステータスとされた時代であるが、女子大生はファミレスでお食事しなくても勉強できるし、若いカップルは赤坂プリンスに宿泊しなくても愛をはぐくみ結婚できるのである。生存には関係ないし、「失われた」から「失った」という感覚が大きくなって、あれから20年、「失われた10年×2」などとも思ってしまうのである。ガルブレイスの「ゆたかさ」も、こんな感覚と共通するところがある。すなわち、(ヨーロッパの)一般の貧農にとっては今日食べるものと今日明日の生活が、人生にとっての現実であり、生きてもいないであろう70歳や80歳の医療費や海外旅行の費用など、考えもしないことである。現代の私たちが多少の差異はあれ、将来に対して「漠然とした不安」や「おそれ」あるいは「準備」を考えるのは、生産が増大し、科学・医療技術が発達し、可処分所得が増え、世界が相対的に平和になった結果、リカードの時代の一般的貧農が想像もできないぐらい、長生きになり、20年後や50年後を考えることができるようになり、また使わないけれども失ったら悲しい、生存とは直接関係ない余裕が生まれているからである。換言すると、失うものが巨大になるほど、またそれを失うまいとする心も大きくなるのである。ゆたかさとは、affluenceなのである、リカードの時代と比べれば。

ジョン・ケネス・ガルブレイス著(2006/1998)『ゆたかな社会』岩波現代文庫(社会137)
J. K. Galbraith (1998/1958) The Affluent Society, Boston: Houghton Mifflin

渡部 淳 わたなべ まこと 総合政策・国際政策文化2期生
北海道文教大学 専任講師

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