(前回 (4) からの続き)
「ゆたかさ」に関連して、「ゆたかさの実現」に関連して、ガルブレイスの「依存効果」という概念も、実に現代資本主義分析にとって、いまだに秀逸なものである。いや、今こそと言えようか。すなわち、GDPに代表される経済の生産の順調な増大は、経済そのものだけでなく、政策的に市場を支援している政治にとって「政策的勝利」の、揺るがない旗としての地位を長い間果たして来た。つまり、生産が拡大していれば、市場は安泰で政権も安泰だと。しかし、ガルブレイスは生産をとりまく環境の変化にも私たちの関心を促している。「依存効果」の議論では、生産の拡大によって世の中に余剰物資があふれ始めると、それを新たに手に入れる周囲の人と自分を比べて、自分が相対的にみすぼらしいことから、見栄を張って必要のないものを手に入れようとすると指摘する。より重要な指摘は、企業や実業家が、まさにこのそれほど必要のないものを必要だと、消費者の欲望を駆り立てる宣伝・広告を含めたあらゆる方策によって、需要への供給のための生産の拡大ではなく、生産の拡大(と利潤の増大)のための涙ぐましい努力がなされ、社会もそれにのっていると説く。ほとんどの原子炉が止まっている日本で、一応電力の必要な供給はなされているようである。首都圏を中心に行われた、政府・自治体・警察などの国家権力を総動員した一大「原発必要キャンペーン」も、今から見れば「どうだ、なくなるとたいへんだぞ」という大資本による国家さえも動員した脅しにも見える。
スマホの学生が増える中、私は自ら嬉々として「ローテク宣言」をし、ガラパゴス生物として特に困ったことが無いように思う。生産の拡大が、消費の拡大を促し、かつてなかった生存には不必要な欲望を極限まで増大させる。ネットワーク回線はパンクしそうで悲鳴をあげているが、これまた技術的革新で乗り越えていくのだろう。適正な全社会、全人類の幸せになかった生産と消費、経済と社会と政治のあり方のバランスとはどのようなものなのか。公共性と人間への温かいそして現実的なまなざしにあふれた、大量の著作を残したガルブレイスの一連の著作の意義は、彼を正面から徹底的に批判したフリードマン、及びその信徒だったレーガン、サッチャー以来推し進めた過度のグローバルな金融自由化が、まさにその本拠地をリーマンショックの大津波が襲っているさまをみるなら、一目瞭然ではないか。小泉や竹中といった「骨太」の「合理化」が、大震災が東北を襲う前から、地域の福祉や医療のネットワークの力を極限までそぎ落とし、見捨てられた瀕死の過疎集落が何の因果か大津波によってさらに襲われたのだということを私たちは忘れてはいけない。これまでの政策的失敗や怠慢を「想定外」の大合唱とともに、実はいわれの無い罪を着せられつつある津波や原子炉のせいにするのもよくないことだ。安全のための生産やコストは割高だが、それこそ本当に必要なものではないか、と教授も問いかけている気がする。
ジョン・ケネス・ガルブレイス著(2006/1998)『ゆたかな社会』岩波現代文庫(社会137)
J. K. Galbraith (1998/1958) The Affluent Society, Boston: Houghton Mifflin
渡部 淳 わたなべ まこと 総合政策・国際政策文化2期生
北海道文教大学 専任講師
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